

地方独立行政法人
岐阜県総合医療センター
重症心身障害児施設
「すこやか」
児童発達支援管理責任者/
医療ソーシャルワーカー
中村 仁隆さん
KIMITAKA NAKAMURA
社会福祉学部
2004年3月卒業
岐阜県/岐山高等学校
さまざまな人と協力し合い、
ときには行政さえ巻き込んで、
その子にとってのベストを考える。
その仕事は、ほぼすべてのケースで前例がありません。
目の前の子どもと向き合い、その子のために何ができるのか。
その強い信念のもと、毎日、試行錯誤や自問自答を繰り返す。
そんな中村さんが動いた先には、その子のよりよい未来が確実に待っている。
そして、ふくしのよりよい未来へとつながっている。
お話を伺い、そう確信させられました。きっと、あなたのふくしへのイメージも大きく変わるはずです。

あらゆる制度やさまざまな人をつなげて、
患者や家族の退院後の暮らしを支える。
患者さんやそのご家族に対して必要な社会資源をつなぐことが、医療ソーシャルワーカーの仕事です。医療費の支払いに困る人がいたら保険の制度を紹介したり、退院後の生活を支えるためにさまざまな動きをします。自助、共助、公助というふうに、公的なものだけでなく、他の職種の人や、地域のボランティアの方などのチカラを借りる場合もあります。
そして、地域の社会資源をよりよいものにしていくためには、行政への提言も必要です。行政も現場の意見を受けて福祉計画を立てるので、制度を変えるのも仕事ですね。この施設もそういった政策でできましたし、少しずつ変わりつつあるのかなと思います。




親ではなく、子どものために働く。
何があっても、ブレてはいけない軸。
大切なのは、相手の立場で考えることと、誰のために働くのかということ。なかなか子どもは自分の意思が示せません。特に、現在の施設に入所している子どもはコミュニケーションが難しくて、どうしても親の希望になりがちです。子どものためと思えなければ、反対意見も出します。自分から言っても難しそうという場合は医師や看護師を通して、揉め事にならないようにしながら理解してもらうようにしていますね。
あとは、法律や数字などの根拠が大切ですね。行政や外部とうまく連携をとったり、感情論で物事を進めないためには、制度の根拠が何なのかを調べないといけません。だから、そこにはかなり時間をかけます。行政を動かす場合には制度の限界を理解して、それに基づいた対応が必要です。制度を変えようとするときには、なおさらですね。



自分ががんばるかどうかで、
その子の人生が
大きく変わるかもしれない。
特に印象に残っている話があります。900グラムほどで生まれて、そのときに声門下狭窄という気管が詰まる障害を抱えた大西悠祐くんという子がいました。生後3ヶ月に気管切開手術を受けて、チューブを通して呼吸をしている影響で、声を出せないし、1日に何度もチューブにたまる痰を吸引しないといけません。その悠祐くんがたまたま肺炎で入院してきて、お母さんから保育園に通わせることはできないかと相談を受けました。内心厳しいかなと思いながらも、岐阜市の保育園に片っ端から電話をかけてみました。でも、やっぱりダメで。唯一、病児用保育からはOKが出たんですが、気管が開いていて菌が入りやすく病気が移ってしまう可能性が高いので、現実的ではありませんでした。



どうしたらいいのかなと思っていたら、ちょうど法律が変わったんですよ。研修を受ければ福祉職でも痰の吸引ができるようになった。これはと思って岐阜市に話を持っていったんですが、前例がなく予算もついていないので、なかなかうまくいかなくて。お母さんも役所に何度も相談に行ってくれていたのですが、それでも話が進まず。その後も主治医の先生など、いろんな方面からアプローチを試みていると、最後は京町保育園というところの園長先生が悠祐くんを受け入れたいと名乗り出てくれました。市もそれならということだったので、うちの病院で研修を実施したり、入園後に何かあったときの受け入れ態勢を消防本部と連携して整えたりして、ついに保育園に入れるようになったんです。多くの人が職種を超えてひとつになって、悠祐くんを保育園に入れるために動いてくれました。結果として保育園に入るまでは2年以上かかりましたけど、これまで自分がやってきたことが間違いじゃなかったのかなって実感できました。

そこまでやるのかって考えもあると思うんですよ。最初の相談の時点で、無理だろうと答えて終わらせることもできました。でも、本当に受け入れてくれるところがないのかって、自分で調べてみないとわからないじゃないですか。それも1、2件で終わってもよかったんですが、最後までやりたいって思ったんです。その間、悠祐くんにとって何が大切かってことは、ずっと考えてました。彼は知能には何の問題もないので、知的障害のある子とずっといっしょに暮らすということがいいことなのか、声が出せなくても普通学級で同世代の子の会話を聞くことに意味はあるんじゃないか、それに、小学生になるまで自宅でお母さんと2人だと閉じこもってしまうかもしれない。そんないろんなことを考えたら、やっぱり保育園に行くべきだと。諦めるタイミングはいくらでもあったんですが、やらないといけないなって動きつづけました。仕事というより、そういう僕の性格もあるのかもしれないですけど。
そこから岐阜市は毎年数名ずつ、研修を受けられるようにもなり、市立の保育園では痰の吸引や管から栄養を摂る子も受け入れています。次に続く子たちのためにもがんばろうとお母さんとも話をしていたので、少しは役に立てたのかもしれません。あとは、そこでがんばれるかどうかで、その後の成長が大きく変わるのかなと思うんです。いろんな子が通院で来るたびに声をかけてくれて、成長過程が見れるんですよ。そこに立ち会えるのはうれしいですし、なかなかおもしろい仕事だなって感じますね。





まだ誰もやっていないからこそ、
これからのふくしをつくることになる。
いま、小児科担当のソーシャルワーカーは、全国的にもかなり少ないです。国も医療的ケアコーディネーターを養成しているけど、まだまだこれからの分野。だから、前例がほとんどなく、常に勉強しながらの試行錯誤です。でも、その分、誰もやっていないっていうおもしろさはあります。いまやっていることが全国に広がるモデルになって、後進の人たちにつながるといいですよね。コーディネーターの養成講座で講師をやって人を育てる楽しさも知ることができましたし、医師と看護師の専門誌に子どもの医療と福祉制度について執筆する機会もいただきました。そういう活動から、ふくしをよりよい方に変えていきたいです。
逆に最近の課題は、障害のある子どもに対して親がすることは介護なのか、子育てなのか、その捉え方がむずかしいです。お風呂に入れたり、夜中に起きることが大変だからといって福祉のサービスをつけすぎて、親のすることがないっていう現象が起きています。でも、それをするのが子育てですよね。サポートはしながらも親子のふれあいの時間をつくるために、どこまでサポートするかの基準をもっと考えないといけません。個人的には障害の有無に関わらず、親元で生活することが
“ふつうのくらしのしあわせ”だと思います。それを当たり前にしないといけないし、在宅ケアはもちろん、地域の医療機関があって、それを支える人たちがいるというのが当たり前の状態を目指して、これからもがんばっていこうと思っています。

中村さんのお仕事やその後の悠祐くんについて、
お母さんの由美さんにもお話を伺いました。
中村さんに出会えなかったら、
まったく別の人生だったと思う。
妊娠6ヶ月にも満たないころ、胎盤剥離で急な出産となり、母子ともに1分1秒を争う状態でした。なんとか生まれた悠祐は呼吸ができなくて、すぐに口から管を通しました。でも、そのときの傷が癒着して抜管できず、気管に穴を開けることになりました。24時間もたないかも、心臓が危ない、輸血が必要など、さまざまなことがありましたが、ちゃんと成長して退院することができました。1歳になり、目や耳、運動能力には何の問題もなく、何かあるとすれば知能だけだということで、主治医の先生がそちらに強い総合医療センターを勧めてくれました。そこで出会ったのが中村さんです。実は以前の病院でも保育園に行ける可能性があるか相談したのですが、すぐに無理だと返されました。でも、中村さんはやってみましょうと動いてくれた。退院した後も、ずっと動きつづけてくれました。一度、本気で諦めようとしたんですが、そのときも中村さんが勇気をくれたんです。
悠祐は8歳になりました。3歳の時に切開の手術を行い、いまは小学校の普通学級に通っています。声は小さくてしゃがれてるけど、ちゃんと話せるようになりました。手術後はほとんど風邪もひかないし、身長も後ろから数えた方が早いくらい。いじめも心配したのですが、まったくありません。保育園のときから、友だちはみんなわかってくれているみたいで。小学校でも、校長先生が全校生徒の前で事情を説明してくれて、私も同じ学年の親に対して話をさせてもらいました。みんなが知っているというのが結果的によかったのか、教室で発表するときは静かにしてくれたり、すごく協力的に接してくれてます。周りにも恵まれてよかったです。中村さんに会えてなかったら、私たち家族の人生はまったく別のものになっていたはず。本当に感謝しています。


※掲載内容は2019年3月取材時のものです。
仕事で知り合った先生といっしょに、1年2回ほど3,000メートル級の山に登っています。そこでいろいろと仕事の話をしながらビールを飲むのが楽しみですね。登山のために体力をつけようとマラソンにも参加するようになり、毎朝10キロ走るようになりました。先生との関係は子どもの訪問診療をお願いしたところからですが、はじめはその話を99%断るつもりだったらしいです。でも、最終的には引き受けてもらえて、こんなに仲良くなるなんて不思議な縁だなと思っています。

