上原 梅音(鈴鹿工業高等専門学校 1年)
八月下旬、朝六時前。軽ワゴンが通り過ぎる音がする。實さんが畑を見に山に行く。
私の実家の山梨県早川町の最奥の地域、奈良田では、かつて焼畑が行われていた。原始的で、しかも地球温暖化を助長させると思われがちだが、本来の焼畑は違う。火入れによって灰にかわった草木は作物の肥料になり、土を焼く効果で農薬、除草剤も不要とする。発生する二酸化炭素は、次に樹木が育つ間に取り戻される。自然の回復力を活かして土地を循環する焼畑は、エコロジカルなのだ。
奈良田の焼畑について詳しく知ったのは中二の夏。それから、調べれば調べただけ、新たな発見があった。持続可能な農業であるだけでなく、村一丸となる社会の形成、豊かな食文化、伝統民謡の歌詞にも登場する焼畑は、「農業の枠にとどまらない」価値がある。
昨年から、地元の非営利法人が奈良田の焼畑復活に取り組んでいる。私も作業とも言いがたい程度の手伝いをさせてもらった。若い年代が火の調整に苦労する中、一歩先回りして「次の」作業を進める實さんの姿があった。
地元の人で、このように現場まで足を運ぶ人は他にいない。焼畑復活も實さんなしでは実現できなかったという。
今年で九十一歳。それが信じられないほど、てきぱきと農作業をこなす實さん。生き字引のような人で、三味線もひければ、歌も上手で話もうまい。奈良田について知りたい人は、このおじいちゃんに聞くのが一番だ。
どうしてあんなに生き生きとしているのだろう。焼畑のことを調べていた時に實さんが語っていたことを思い出す。
伝統文化というのは、「生きる」ことの表れなのかもしれない。その姿は尊い。そして、伝統文化は私たちを通して、これからも生きてゆくのだろう。
軽ワゴンの音を聞いて、私も急いで準備をする。蒔いた蕎麦が芽を出す頃だという。玄関先で山を見上げる。愛おしく感じた。
審査員一同高く評価した、秀逸なエッセイです。具体性に富んだ内容で、壮大な景色が目の前に鮮やかに広がるような感動を覚えました。伝統的な焼き畑が見直されている話は興味深く、地域の人々の暮らしを描く中に、郷土への愛や誇り、伝統を大切に思う気持ちが感じられます。短い文章にもかかわらず、實さんの人柄も浮かび上がってきました。
今日的なテーマを取り上げた点が評価できるほか、文章力が高く展開にも優れ、すべてにバランスの取れた作品に仕上がっています。
石田 美緒(日本女子大学附属高等学校 1年)
「故郷」という曲を知っているだろうか。きっとメロディを聞けば分かる人が多くいるであろう有名な曲だ。私はこの曲を通して得た、ある輝かしい思い出がある。
私は八歳ごろからジュニアオーケストラに所属して、バイオリンを弾いていた。あるとき、いつも練習場所を提供してくださっていた福祉施設で、感謝の気持ちを込めたささやかなコンサートを行った。曲目の中には、「故郷」があった。
私達オーケストラが「故郷」を演奏し終わり、さて次の曲へと皆が動こうとした際、女性の声が聞こえた。
「うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川」
「故郷」だった。演奏が終わった静かな空間でその歌声が響いた瞬間の緊張感、同時に伝わった歌声のぬくもりを、随分と時間が経った今でも鮮明に覚えている。
驚きはさらに続いた。バイオリンパートの団員の一人が、軽く弦をはじく奏法で女性の歌声に音を重ねたのだ。突然歌い始めた女性に驚いて固まっていた他の団員や私も、その音を聴いて同じように演奏を始めた。一人の歌声から始まり、それを包み込むように広がった音楽はこの上なく美しいものだったと思う。その女性がなぜ「故郷」を歌ったのか、明確な理由は知ることが出来なかったが、幸せそうに、まるで故郷の空気を感じているかのような表情を浮かべていたのを覚えている。そして私はその時、意識せずとも「皆で奏でる音楽」の素晴らしさと「空間や感情まで記憶させる音楽」の存在を理解した。それはバイオリンだけに限らず、私達が生きる中で出会う全ての音楽に共通していると思うのだ。
私は高校生になり弦楽部に入部した。これからも、私にとって、誰かにとって「空間や感情を記憶させる音楽」を奏でることを心に留めておきたい。それは必ず、私の輝かしい思い出の軸となってくれるだろう。
奏者として参加した福祉施設でのコンサートの場面が、そのときの情景や音響とともによみがえってくるような作品です。突然、唱歌『故郷(ふるさと)』を歌い始めた女性に合わせて即興演奏を行ったときに、あらためて音楽のすばらしさを作者が発見したことが伝わってきます。
テーマに合っていて、体験に根ざした思いをストレートに表現している点が良かったです。歌を口ずさんだ女性がどんな様子だったのか、もっと知りたくなりました。
神田 瞳(四天王寺高等学校 3年)
一日かけて飛行機を乗り継いでたどり着いた先はネパール。貧困国としても知られるこの国でボランティアとして過ごした二週間が今の私を突き動かしてくれる。
学校の夏休みを利用して海外で学んでみたいと考えていた私は、インターネットで見つけた「海外ボランティア」の文字に心が動かされ、参加を決意した。絶対に良い経験になるだろうという期待のおかげで一人でのフライトもたいして怖くなかった。到着後の活動内容は子どもたちに手の洗い方を教えたり、病院を訪問したりと様々。実際の手術の様子も見学させてもらった。大変なことも多かったが、看護師を志す身として本当に興味深いものばかりだった。
そんな充実した日々ではあったが、心の奥深くに刺さって抜けない出来事がある。それは滞在していたホテルの近くのスーパーに買い物に行った時のことだった。外に出ると小さな女の子がこちらを見つめて手を伸ばしてきた。初めは何を言っているのかも分からず、私はただ茫然としていた。一緒にいた現地スタッフの方に「その子は何かを恵んでほしいと言っているけれど、何も渡したらダメよ。」と言われて、初めてその場の状況を理解し、それと同時に考えるより先に涙が落ちそうになった。私は少しでも困っている人の役に立ちたくてここまで来たのではなかったか。「ボランティア」という言葉に惹かれて参加を決めたのに、実際はできることなど何もないのではないか。そんな無力感でいっぱいになったあの時の気持ちが忘れられない。
目を背けたくなるような現実を前に、私には何ができるのか。帰国して、普通の日常に戻った今でもずっと考え続けている。実際に目で見て感じた私だからできることがあるはずで、だからこそ考えることから逃げてはいけないのだとネパールで教えてもらった。これからもこの思いを忘れず、できることを模索していきたいと思う。
ネパールでのボランティア活動の際に出会った物乞いの少女に対し、何もできなかった自分の心情を吐露しています。それでも現実から目をそらさず、しっかりと直視して向き合おうとする力に希望を感じました。
高校生ながら、自ら海外ボランティアに参加する行動力には感心しました。ネパールで与えられたテーマに対し、「これからも考えることから逃げない、できることを模索したい」と表明した作者の姿勢はすばらしいと思います。
岡本 栞奈(大阪教育大学附属高等学校平野校舎 2年)
「お姉ちゃん次おにごっこしよー!」「来月も来てくれるのー?」そう声をかけてくれるのは、こども食堂に通うこどもたちである。開催日は毎月第三木曜日。私はひと月に一回、ボランティアとして参加している。
私自身知ったきっかけを覚えていないほど、案外身近に存在するこども食堂だが、実際に行ってみようとは思わなかった。そこに通っていればお金が無い人だと思われる、小学生だった私にはその思考が先行してしまった。
ではなぜ、こども食堂を遠くから見ていた私が今、ボランティアとして通っているのか。それは、こども食堂をテーマとする、高校の研究グループへの加入がきっかけである。活動の一環として実際にこども食堂へ赴いたとき、私の中に激震が走った。こども食堂ってこんなに明るいんだ、と。遠くからでは気づけなかった眩い光が、中からずっと放たれていたんだと思うと、心がぎゅうっとなった。こども食堂は学童のような場所。勉強や食育、地域交流ができたりと、我々が思っている以上にずっと、温かいコミュニティなのである。
私は今、こども食堂が貧困層の行く場所であるという偏った認識を改善したいとの強い思いから、「こども食堂連繋プロジェクト」というプロジェクト名を掲げ、グループで活動している。大会でも成果をあげ、共同研究等も視野に、より発展させている段階である。
私はこの経験を通じ、経験から得たものの価値がいかに偉大な人生のワンピースとなるのかを知った。実際に行ってみないと分からない。やってみないと分からない。そのためには人生の中に散りばめられたきっかけがどれほど重要か。その中に秘められた可能性もきっと無限大である。あの空間で元気に遊ぶこどもたちを見て、学ばない者などきっといないだろう。来月も再来月も、そして一年後も、偉大な経験をくれたこども食堂で待ってくれているこどもたちのため、そして私自身への教訓のため、こども食堂に通い続ける。
作者はこども食堂でのボランティア経験を通して、これまで抱いていたイメージとの違いに気がつきます。実際、こども食堂の中には感動する場面がいっぱいあり、「行ってみないと分からない、やってみないと分からない」という想いに共感を覚えました。
加えて、ただ考えを深めるだけでなく、自ら新しい活動に結びつけている点も説得力があり、作者を応援したくなりました。テーマにも沿っていて、気持ちの良いエッセイとなっています。
内田 紀元(中央大学高等学校 1年)
「ありがとうございました」
泣きながら振り絞った言葉だった。拍手が降り注ぎ、最後の夏が終わった。
小学生から始めた野球。無邪気に仲間とワイワイしているだけで楽しかった。それなのに、いつしかロボットのように野球をしていた。投手として、どんなに一生懸命に走りこんで鍛えても、試合のときにどんなに一生懸命投げても、結果が出ないことが多くなってきた頃だった。なぜ打たれるのか。こんなに走っているのに。こんなに投げているのに。こんなに野球に時間を割いているのに。どうにもならない焦燥感に駆られ野球に楽しさを見出せなくなっていた。自分のことに精一杯で周りのことも見えずにただひたすらに野球をしていた。
そんなある日、僕は怪我をした。絶望だった。野球をしない自分は自分でないような感覚があった。僕はチームのサポートにまわった。練習や試合で使う道具の準備やボール集めをした。それらは思っていたよりもずっと大変だった。
それから四ヶ月後、僕は最後の大会のマウンドに立った。一度立ち止まったことで、野球ができる環境のすばらしさに気づいた気がした。周囲を見渡す。振り向くと笑みを浮かべている仲間、支えてくれたマネージャー、休日返上の監督、審判、相手チーム。照りつける太陽も風も僕らの味方だと思えた。一球一球仲間とアイコンタクトをとり、気持ちを込め全力で投げた。一回戦勝利。仲間と力を合わせたどりついたものだった。
決勝まで進み、その最終回、僕らは負けていた。僕は最後の打席に入った。サードライナー。ゲームセットの声が聞こえた。白線に並び帽子をとる。自分一人ではたどりつけなかったこの場所。楽しいときも苦しかったときも、いつだって仲間がいたから……。様々な思いがこみあげながら、する。
気をつけ、礼。
生き生きとした文章で、書き出しと締めの言葉が良かったです。野球にすべてをかけてきた作者の最後の大会、決勝戦が終わった瞬間から始まり、過去へと想いを馳せて、また始まりに戻っていく展開もよく練られています。
勝ちにこだわって楽しさを忘れロボットのように野球をしていた作者が、ケガによって周囲のサポートのありがたさに思い至り、また楽しさを感じるようになる気持ちの変化もすがすがしく、スポーツの魅力を感じました。
永田 有那(中央大学高等学校 3年)
戦争や紛争のニュースをテレビやSNSを通して多く目にするようになった。日常生活でそのような危険からの脅威を一度も感じない日本に住んでいる私は、戦争は地球の裏側で起きているもので自分には無縁の存在だと思っていた。そんなある日、夏休みに広島に旅行に行くことになった。
広島市内に着いた。街を歩いても沢山のビルが立ち並び、車と人々が行き交う自分の住んでいる所と何ら変わらない街だった。しばらく歩き続けると平和記念公園に着いた。そこは全く違う雰囲気だった。負の遺産、そのものだった。更に原爆資料館に入ると普段の生活からは完全に切り離された空間であった。そこには原爆投下により痛めつけられた人々の遺品や写真が展示されていた。その中で一枚の白黒写真に目を奪われた。そこには花柄のワンピースを着た女の子が写っていた。そのワンピースは鮮やかな赤に染まり、まるでカラー写真を見ているかのようだった。しかし、それは、負傷した彼女の滲んだ血に過ぎなかった。この女の子にも家族がいて、友達がいて、戦前は学校で勉強をしていたはずだ。私も週末になれば花柄のワンピースを着て友達と出かける。彼女と私の違いは何なのか。戦争という大人たちの争いごとに巻き込まれた彼女の瞳には未来への希望など宿っていなかった。彼女も私も同じ女の子であり、ただ違う時代に生まれただけなのにどうしてこんなにも残酷な目に合わなければならなかったのか。
この写真に出会ってから私は、戦争で苦しんでいる女の子たちに自分が何ができるかを考えるようになった。難民支援のボランティアに参加した。私が出来ることはそんなに多くはないし微力かもしれない。しかし、家でテレビの画面越しに悲惨な状況をただ見ているよりかはずっと良い。私は同情心ではなく、気に掛ける心に価値があると学んだ。写真の少女の痛みを無駄にしないように。
広島の原爆資料館を訪れた際、展示された少女の写真を見て衝撃を受け、難民支援のボランティアに参加するようになった経緯が綴られています。少女の人生に同情するのではなく、自分に何ができるのかを考えて行動に繋げている点が支持を集めました。
戦争や紛争のニュースが流れる今の時代を反映するとともに、鮮やかな色まで感じる優れたエッセイになっています。どうかこれからも、世界に目を向ける姿勢を大事にしてください。
西 俊之介(中央大学高等学校 2年)
陸上競技で数少ない団体競技であり大会の最後に行われる花の種目リレー。私はこの日、中学最後の大会でリレー競技の一走目を任されていた。これまでの二年半の集大成、そしてこれまで共に頑張ってきた仲間と、最高の瞬間を味わいたい、そういった想いがどんどんこみあげてきた。
いつも通りの朝、いつも通りの電車に乗って、見慣れた競技場で入念にストレッチ。ランニングをしてバトン練習。仲間と最後に打ち合わせをしたら、いよいよ本番だ。「勝ち残ろう。」そう言って各自がスタートラインへ向かっていく。私も大会用のスパイクをきつく締め、スタートラインに手をかける。「セット、パンッ」完璧なスタートだった。風を切ってぐんぐんスピードが上がる。前の選手も手が届きそうなほどに近づいていた。が、ここで突然視界は大きく傾く。地面と空が反転する。私の体は大きく転倒した。バトンがコロコロと私から離れていくのが見えた。真っ白になる頭の中。もう痛みなど感じていられる余裕もない。なんで、なんで。事が上手く行き過ぎていただけに衝撃だった。
「申し訳ない。」その言葉が出たのは、帰り道の途中だった。競技中、バトンすら触れていない三人に掛けられる言葉など、このくらいだった。すると、「ありがとう。」と声を掛けられた。「この陸上部での毎日が、俺にとっては賞状なんかよりもずっと大事なんだよ。」私はこの時はっとした。自分の中でずっと、スポーツというのは技術を磨くため、体力をつけるためのものだと思っていた。だが、スポーツは人との関わりを作る働きがあると気がついた。仲を深め、共に笑いあった日々、目標に向かって切磋琢磨した日々、私はこの陸上を通して得た大切なものを見つけられた。
高校生になった私は今、一生懸命部活に取り組んでいる。そこでもまた、仲間との交流は大切にしている。なぜならそれは、どんな結果や名誉よりも大切になるはずだから。
木村 葵
(大妻中野高等学校 2年)
昔から諦めてばかりいた。5歳の時に始めた水泳も、7歳の時の習字も、8歳の時の英会話も、何かと理由をつけてすぐにやめた。中学受験もそうだ。自分よりうまい人がいたり、少しでも嫌なことがあったりしたら、すぐに投げ出してしまった。時に後悔することもあるが、どうすることもできなかった。
だから、中学で入部したバレーボール部も、どうせすぐにやめると思った。友達がバレー部に入るというので、軽い気持ちで入部届を出した。練習も多いし、高校では勉強に集中したいから、1?2年やってやめよう。そう思っていた。
初めて試合に出たのは、中学一年生の冬だった。試合で調子が上がらない先輩の代わりに、急遽私が出ることになったのだ。得点板を見て逆転は不可能だと悟った私は、流れるようにコートに入り、軽く構えた。笛の合図と同時に相手の強力なサーブが入ると、ボールは隣の先輩の腕に当たり、大きくはじけた。考えるよりも先に、私は足を動かしていた。そして、思いっきり伸ばした腕にボールが当たり、そのまま相手のコートに落ちた。レシーブエースだ。右腕に残るボールの感触に浸っている私を置き去りに、チームは勢いに乗り、逆転勝利を飾った。あの一本を、自分が諦めていたら絶対に勝てなかった。それを強く痛感した試合だった。
高校二年生になった今、私はバレー部の副部長を務めている。部員の数も減り、練習も厳しくなり、何度もやめたいと思った。でも、私はどうしても諦めきれなかった。今諦めたら、可能性はゼロになってしまう。それを、誰よりもわかっていたからだ。だから私は、今でも懸命にボールを追っている。無理だと思っても、どれだけ疲れていても、あの時の感触を忘れずにいる私が、足をとめることを許さない。そして、いつかその目標がボールではなくなっても、その足は止まらないだろう。
江口 結菜(徳島県立脇町高等学校 2年)
「響いている!」
広いホールのステージで響きに包まれながら音楽を奏でる。これまでに感じたことのない心地よさで心が満たされてゆく。このまま時間が止まってほしい。
昨年、高校に入学した私は、姉と同じ吹奏楽部に入部した。姉の時に三十人を超えていた部員数は半数以下になっていた。コンクールに参加するにも小編成部門、文化祭で演奏するにもパートが足りない、という状況。思い描いていた大人数での演奏はほど遠い夢。そう思っていた。
しかし、この夢は実際、かなり近くにあった。冬のことだ。三校合同で全国高等学校総合文化祭に参加することが決定した。そのうち一校は、私たちの倍近くの部員数。「大人数で演奏ができる。」胸が高鳴った。
そして今年、それぞれの学校が新入部員を迎え、計約五十人で八月四日の本番の日を迎えた。朝からずっとわくわくしており、舞台上に移動しても緊張は一切ない。周りを見渡してみても、全員緊張している様子はなく、やる気に満ちているようだ。
ついに、演奏が始まった。曲が進むにつれ、音色が重なっていき豊かな響きになっていくのを感じる。初めての感覚。自分が奏でる音と周りの音が合わさり、大きな響きになっていく。「気持ちいい、楽しい。」
「あれが音楽を楽しむということか。」本番を振り返り、心の中で呟く。「自分達が音楽を楽しむことが何よりも大切。」これまでに何度も先生がこう言っていた。今まではこの「音楽を楽しむ」というのがどういうものか分からなかったが、今回の経験で体感した。演奏していて、自然と心が躍りだす。この感覚だ。この楽しさを演奏を聴いてくれる人にも伝えたい。
たっぷり息を吸い、精一杯楽器に息を吹き込む。「楽しさ、届け。」
森 茜(徳島県立脇町高等学校 2年)
「またか…。」
紙に書かれた数字を見て、当時11歳だった私はため息をついた。当時所属していた陸上クラブで一時期タイムが伸び悩んでいたことがあった。周りのタイムと自分のタイムを比べてさらに深いため息をついた。
それからというもの、一生懸命練習しても意味がないだろうという考えにとりつかれていた私は、汗を流して練習して結果を残していく人との差を感じて、練習を休むようになった。
その状態がしばらく続き、元気がでないままテレビを見ていたとき、父が私の横に静かに座った。
「行かんのか。」
と、短く言われた。私も行きたい、みんなと走って結果を残したい。そのような思いはずっと、あった。だが、もう一度ぶつかってその壁をのりこえられなかったら、と考えると本当に立ち直れなくなりそうで怖かった。結局父の問いかけに答えられず静かな沈黙が嫌なほど続いた、気がする。
とある日、父が電話だぞと言って自分のスマホを私に渡してきた。嫌な予感は当たった。聞き慣れた声がスピーカーから聞こえてきた。
「最近、暑いのう。」
それは陸上クラブの監督の声だった。私は何も言えなかった。何もしゃべらなかった。監督も私にしゃべらせる気はなかったようですぐに言葉を発した。
「暑いから、みんな汗いっぱいで走っとる。でもみんなキラキラしとる。それはな、走ることを楽しいと思うとるからや。スポーツは結果やない。楽しむことが大事なんや。とにかく何も考えず走れ。また戻ってこい。」
目の前が涙でいっぱいだった。欲しかった言葉をくれた気がした。私の中にまた炎が息を吹きかえす予感がした。
大切なことは結果ではない。楽しむこと。その先に自分の欲しいものはあるのだ。
伊藤 恋彩夏(云顶娱乐棋牌_云顶娱乐网址¥app下载官网付属高等学校 2年)
男子の中に女子は混ざれない。
私は小学三年生から中学二年生までフットサルを習っていた。もともとさっぱりした性格だったこともあって女子のキャピキャピした雰囲気についていけず、私は男子といることの方が多かった。そうすれば変に気を遣わなくて良いし、一緒にサッカーだって出来て、とても楽だったからだ。
ある日、いつものように校庭でサッカーをしていると、「最近あいつとサッカーやるのつまんないよな」そんな声が聞こえてしまった。私はものすごくショックだった。確かに少し手抜かれてるなって思ったことがあったけど、そこまでなんて考えてもなかった。だけど今考えてみると、小学校高学年になってきて実力差は明らかだったから当たり前のことだったのかもしれない。それでも当時の私を傷つけるには十分すぎる一言だった。
でも中学生の時だった。もうみんな私のことをあんな風に思ってる。ずっとそんな考えを持ち続けていた私を救ってくれる人がいた。それはフットサルスクールのコーチだった。試合形式で練習するためにチーム分けをしていた時、中学生になってからも小学生と試合をしていた私だったが、中高生のチームの方に入れると言ってきた。「私女子なのになんで?」気づいたらそう言葉にしていた。すると「え、女だったの?」と冗談混じりに笑いながらコーチが言った。嬉しかった。普通に聞いたら傷つくような言葉かもしれないけど、男女関係なく中高生のチームに入っても『お前なら大丈夫』だと、そう言われている気がして一気に心が晴れた。これを境に私は、また学校でもサッカーをするようになった。
『男女差別』今の世界で問題視されているこの話題。確かに男と女で違いはある。でも男女それぞれの中にも違いはあるし、現代ではその壁すらも壊されている。だから私は願う。一人一人の努力を実際に見て、実力を認め、人を判断する力を持つ人が増えることを。